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Global|コロナ・パンデミックが教える「なくてもよいファッション」とは?

Apr 25, 2020.橋本雅彦Tokyo, JP
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昨年末に中国で発生した新型コロナウイルスの感染拡大が欧米ではそろそろ沈静化の兆しを見せているが、日本ではオーバーシュートするのかどうかの瀬戸際だ。5月がその正念場になりそうだ。

全世界的な感染拡大が収まったのかどうかは別として、発生から4ヵ月が経過してその経済的な打撃はどんどん広がっているように見える。指標の数字が刻々と表示される株式市場や原油先物市場などはいうまでもなく、小売統計や今後深刻の度を増すであろう失業率などのことを考えると荒涼たる未来がそこには横たわっている。

そうした暗澹たる未来も時間さえ経てば復活するものだが、それでも失われてしまって戻らないのでは?と思われるものがある。わずか3〜4ヵ月のことではあるが、「これは必要なのか?」と思われたものがいくつかあった。まず1月のパリ・オートクチュールコレクション。大変にデリカシーのない書き方で恐縮なのだが、これが中止になって困ったという人がいたのだろうか。オートクチュールで注文するのを心待ちにしていた全世界に3000人しかいないと言われる超富裕層の女性たち?それは各オートクチュール・メゾンの密室でやっていただければよろしいわけで、庶民にはもちろんのこと、あの贅沢と職人芸の極みのような装飾美の祭典を心の底から愛でている一握りのジャーナリストとあの週間をブランドの格好の広報宣伝の場と考えている一握りのラグジュアリー・ブランド以外にとっては、「もしかしたらなくてもいい」存在だと思われていたものが、こうして実際に中止になってみると「なくてもいい」という確信に変わってきた。「一握り」と書いたが、簡単に言えば「シャネル」と「ディオール」のためにやっているようなもので、それもカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)が鬼籍に入り、マリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)がどう考えてもオートクチュール的なデフィレが苦手ということなのであれば、両ブランドが協議して、コレクションサーキットから潔く撤退してはどうだろうか。

ついでに言わせてもらうと、プレタコレクションというのも「やめろ」とは言わないが、これを機にやり方を大きく変えてはどうなのだろうか。このコロナ・パンデミックの中で各種の展示会が中止されているが、これと無観客のビデオランウェイないしは服のディテールを徹底的に撮影したビデオをバイヤーとマスコミと一般消費者にYouTubeで流せば、ブランドに対する理解は飛躍的に深まるだろうし、一部の特権だけで生きているようなお馬鹿なモード誌というのもなくなって、世の中には本当のファッションだけが晴れ晴れと闊歩するようになるのではないだろうか。

コロナ・パンデミックは、展示会とファッションショーがファッションにとって本当に必要なのだろうかということを考える良い契機になったと思うのは私だけだろうか。それでなくとも猫も杓子も「サステイナブル」と◯◯の一つ覚えみたいに叫んでいる昨今であるから、ほとんどは友達招いて「参加することに意義がある」レベルの学芸会ランウェイをやっているどこかの街のファッションウィークは言うに及ばず、金を湯水のように濫費する世界のファッションウィークはもう少しサステイナブルに行われるべきなのではないか。そうすれば肥大化しマンネリ化したファッションの世界の本当の素晴らしさに我々は気付くようになるかもしれない。

コロナ・パンデミックによって経済活動が大きく低下することで今まで大気汚染によって見えなかった彼方の山々が美しく浮かび上がった例が全世界で数多く報告されているが、このファッションの世界でもそうしたことが起きてほしいものだと切に思う。

ただし留意しなければならないことがある。「なくてもよい」ものの中にファッションそのものが入らないようにする努力が必要だということだ。「ファッションは不要不急のものではない。人の心や人の生活を豊かにする不可欠の存在であること」を本当に理解しているデザイナーや企業によってのみ作られなければ、「なくてもよいもの」として排除される存在になってしまうということを肝に命じたいものである。

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