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対談連載「あの人は今⁉︎」 FILE1ドン小西 ドン小西が語る コロナ禍をやり過ごす私の生き方(その3)

Jul 23, 2021.三浦彰Tokyo, JP
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三浦:ワイドショーのファッションチェック以外にもいろいろやってましたよね?
小西:そうですね。いろいろ他の番組にも使ってもらった。ドラマも3本出させて頂いたり、歌番組とかクイズ番組とかバラエティとかそんなものにも出さしてもらったね。

三浦:CMも出てましたからね。タンスにドン?
小西:ドンドン防虫剤ですよ。アース製薬さんね。あと東京電話からも頂いたね。それからDHCかな。

三浦:DHCもやったの?
小西:DHCは結構やりました。そのほか地方のCMとかもあった。

三浦:話が戻りますけれども、ファッションで作ったその負債ってどれぐらいでしたっけ?20億円でしたっけ?
小西:20億円もないよ。負債っていうより、すべてのものが全部なくなった。なくなるだけで終わらなくてさ。僕の自宅も、三重の親のウチも、私の妹のウチもみんな持って行かれた上に、さらに足らないって言うからさ、まあその時はひとつには自殺を考えるよね。そこまで大きいと、負債がね。それと同時に恐ろしいほどの資産や環境を作ってきてそれもなくなったっていう虚しさというか絶望感っていうのかな。でもそういう私をもう一度一生懸命にさせてくれたのがテレビなんだよ。そんなことで悩んでいる暇はないとね。僕の出る番組はほとんど生番組だったしね。

三浦:それで完済したんですか?
小西:完済しましたよ。いろいろ大変だったけど。ブランドを亡き山本寛斎さんに買って頂いたりとか。

三浦:そうでしたね。すごい恩があるんでしたよね。寛斎さんが去年亡くなったときに文章を「WWDジャパン」に書いてもらいましたね。
小西:そうだったね。まあいろいろやりましたよ。だからテレビなんかでいろいろ稼いでも、月々僕のところには30万円しか入らないようにしてあと残りは全部銀行に行くようにしていたから。

三浦:よく考えてみるとドンさんはまず東京コレクションをやっていたけど、その後ニューヨーク、それからミラノでもショーをやっていましたね。
小西:なぜかっていうとあの頃(1990年代後半)って、「ユニクロ(UNIQLO)」も東京に出だして、そして海外ブランドだと「プラダ(PRADA)」あたりが、「プラダスポーツ(PRADA SPORT)」っていうのをやり始めた。まったくのミニマルファッション。イメージや色を使わない。ほとんどグレー。マークだけが赤っていうやつ。で、ジップも見せないしボタンもない。比翼ボタンとかね、隠しボタンね。そういう本当にミニマルがはやりだしちゃって、僕らが目指していたのはデコラティブで、ロマンティックなやつね、色もふんだん使っている。まるで真逆なのよ。僕の洋服はね直線がなくて、ほとんどこういう柄柄柄っていう感じね。

三浦:ですよね。
小西:ロココ調とかバロック柄が多かったから。

三浦:わかりやすくいうとビートたけしさんが着ていたセーターね。とにかく寄席の舞台では必ず着ていた。あれは提供していたの?たけしさんに。
小西:まあいろいろと協力してもらってはいたけど、僕らは別にお金を払ったことはないんだけど。

三浦:あれはしかし強烈だった。
小西:あれは、そうだね。ああいう作品っていうのは、どうやって作っているかっていうと、やっぱりまず大事なのは売れる売れないっていうことをあまり考えないこと。考えるとダメなんだよ。それともうひとつはね、人の作品を見ないこと。

三浦:それだよね。それ大切ですよ。
小西:うん。一切見ない。これがね、オリジナリティを作る原点だって僕は今は思う。まあでもさ、そんなことをやっているとあまりにも個性的すぎちゃうんだけど。で、マーケットを探していたわけ。韓国でソウルコレクションまでやったわけよ。

三浦:ソウルコレクションにも出たんだ。
小西:丸紅に入ってもらってソウルで展示会も何回かやった。

三浦:SFCですね。
小西:やりました。それとロンドンでもやったんですよ。展示会だけだけど。

三浦:ニューヨークとミラノはショーでしたね。パリは?パリコレは記憶ないけど。
小西:パリはね届かなかったの。だってさ、1回コレクションショーを海外でやると1億円かかるわけよ。

三浦:まあ1億円ですね。
小西:ニューヨークで事務所持ってやってるとさ、そこの運営費だけでもなん億もかかるんだよ。で、さらに年2回コレクションするとその度にサンプルの制作費なんて1億円くらいかかっちゃうし、それでもって東京も年2回やってね。1回1億円って簡単に言うけど、すごいよね。それでパリまでは届かなかったわけよ。まあ僕が何を言いたいかというと、新しいマーケットを攻めたわけね。日本はもう無理だってわかったので、いろいろ僕はやることはやったんですよ。諦めたわけではない。

三浦:日の丸のハチマキ巻いて特攻していたみたいなもんですよね。
小西:だから 本当に何十億の金を残そうと思ったらその時にブランドを売っていたよ。ライカなんか欲しいって言っていたんだからね。

三浦:手をあげてた?
小西:あの頃何十億で欲しいって言ってきてたよ。でもライカとかあの類の会社って、香港とかの工場へ行くと僕らのカタログなんかがいっぱい置いてあった。これどこが持ってきたんですかって聞いたら、ライカさんだとか、あと今期百何十億の赤字出したっていう?

三浦:ワールド?
小西:ワールドなんかのブランドがいっぱいやっている工場へ行くと似たようなのばっかなんだよ。僕のニットとね、女物に置き換えてるところいっぱいありましたよ。

三浦:基本「フィッチェ ウォモ」はメンズだからね。
小西:あれはメンズっぽい色じゃないから、僕らの作る色彩感覚のものづくりには興味あったわけよ。その時にバーンと売っちゃって5、60億円の金持って資産運用しているとね、銀座かなんかにビル買って、そうしたらさ、もうそれから15、6年もどんどんどんどん家賃収入が入ってきて遊び回って…。でもそうだったらもう今頃さ死んでるからね(笑)。

三浦:死んでますね。
小西:だからさ、人生ってこう振り返ると面白いもんだなって。で僕は70になってね、今年71でしょ。

三浦:10月4日生まれでしたね。
小西:でも僕は71でも年寄りと思ってないのよ、ただ物忘れとか老化現象はちょっとヤバいけど。人の名前がまず出てこない。三浦くんはいくつ?

三浦:昭和29年生まれの66歳ですよ。
小西:うちの元女房と一緒だよ。三浦君、若いのにジジイだね。

三浦:頼みますよ、本当に(笑) 。
小西:俺の66歳は毎日朝からちんこピンピンだよ本当に。いや本当だよ。たとえは悪いけど。

三浦:ドンさんだって1回ほら、担ぎ込まれたじゃないですか?バイアグラの飲み過ぎだかなんかで(笑)。
小西:いやそれは嘘ですよ。俺はナチュラル派です。ムード派ですから、言葉ではそういう風に悪ぶってるんだけど、僕とかテリー伊藤はね、言うばっかりで意外とそうではないんですよ。僕なんか紳士だって言われてるんだから。ホントに。で、テリー伊藤はね、言うばっかりでね。20年前からダメなんじゃないかな。

三浦:テリーさんは上ですよね。
小西:僕より半年か1歳くらい上だよ。

三浦:え、そんななの。へえ、若いんですね。
小西:「歳」って言うのは誰が決めるものでもなくて、人それぞれ寿命があっていいわけだよね。僕はそんな風に考えているの。たださっき言ったように物忘れであるとか、着実に蝕まれている部分があるんだけど、僕は一生現役でいたいなと思ってやっている。

(7月30日金曜日アップ予定の第4回に続く)

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