青梅信金時代の写真 銀座時代の写真
会場に飾られた花井幸子が描いたファッションイラストがその回答だ。その並外れた上手さに驚かない人はいないだろう。彼女は、当時ファッションイラストレーションの第一人者であった長沢節(1917〜1999)が主宰するセツ・モード・セミナーに学んで1959年に卒業している。Wikipediaを参照して欲しいが、このセツ・モード・セミナーの出身者名簿には、意外にも川久保玲や山本耀司の名前があったり、安藤忠雄、樹木希林の名前までリストアップされている。いかに現在の日本に影響のあった存在なのかを改めて実感した。
そうした中にあっても、花井幸子の実力は抜きん出ていたようで、1962年には25歳の若さで水彩連盟の審査員になっている。現在では、デザインやコンセプトをアシスタントやパタンナーに伝えるのにデザイン画を用いないデザイナーは山ほどいると思うし、そもそもデザイン画が描けないデザイナーも少なくないが、1960年代、1970年代にはデザイン画が上手くなければデザイナーとは言えない時代だった。今から見ても花井幸子のファッションイラストは惚れ惚れするようなもので、多分ファッションの世界でなくても、ひとかどの存在になっていたのではないだろうか。
会場内に飾られたイラスト
会場内に飾られたイラスト
会場内に飾られたイラスト
私は、1980年代前半に一度だけインタビューしたことがあるが、「あたしって、コシノヒロコさんに似てる?よく間違われるのよ」と笑わせてくれたのを覚えている。コシノヒロコよりは、料理愛好家の平野レミの方が感じは似ていると思うが(笑)。とにかく口八丁手八丁の人だった。なんでも器用にこなしてしまう。日本舞踊も名取りだったし、カメラの腕もかなりのものだったようだ。ライセンス商品や製服デザインが多かったことは、彼女のそうした器用さゆえだろう。
東京コレクション(東京ファッションウィーク)のデザイナー組織であるCFD(東京ファッションデザイナー協議会。1985年設立)の前身であるTD6(東京のデザイナー6人。1974年設立)の1人であったことはよく知られているが、いわゆる「エレガンス系」のデザイナーであった。こうしたデザインに対する需要は世の中のライフスタイルのカジュアル化の中で、年々少なくなっているのは事実だが、なくなるものではない。会場で、花井幸子の素晴らしいファッションイラストを見ていると、こういうブランドが末長く生き残って欲しいものだと願わずにはいられなかった。合掌。