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青梅信金勤務からファッションデザイナーに転身した花井幸子を偲んで

Feb 17, 2023.三浦彰Tokyo,JP
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「お別れの会」に設けられた花井幸子の祭壇

昨年10月1日に84歳で老衰のために死去したファッションデザイナーの花井幸子の「お別れの会」が2月15日に渋谷のセルリアンタワー東急ホテルで行われた。地下2階のボールルームに祭壇が設けられ、来場者は白い花を一輪献花して手を合わせた。

会場には、彼女の84年の生涯を写真で振り返るコーナーもあった。来場者に手渡された年表によれば、彼女は1937年横浜市生まれとあるが、Wikipediaによれば東京都青梅市出身とある。生涯を綴った写真には青梅信金時代(入行は1956年)に事務をしている彼女の姿があるから、出生は横浜だが青梅市出身ということなのだろう。失礼ながらいかにも青梅信金の事務員という風貌の写真ではあった。ここから、阿佐ヶ谷にフリーデザイナーとしてアトリエを設立(1964年)、銀座ブティック「マダム花井」を設立し(1968年)、1970年には「YUKIKO HANAI」のコレクションを発表するという「人生の転換」があったわけなのだが、今の時代ではこういうサクセスストーリーはなかなか生まれないから、「青梅信金勤務から一体、何があったのだ?」という疑問が湧いても当然だろう。これも会場内に回答が用意されていた。

青梅信金時代の写真 銀座時代の写真

会場に飾られた花井幸子が描いたファッションイラストがその回答だ。その並外れた上手さに驚かない人はいないだろう。彼女は、当時ファッションイラストレーションの第一人者であった長沢節(1917〜1999)が主宰するセツ・モード・セミナーに学んで1959年に卒業している。Wikipediaを参照して欲しいが、このセツ・モード・セミナーの出身者名簿には、意外にも川久保玲や山本耀司の名前があったり、安藤忠雄、樹木希林の名前までリストアップされている。いかに現在の日本に影響のあった存在なのかを改めて実感した。

そうした中にあっても、花井幸子の実力は抜きん出ていたようで、1962年には25歳の若さで水彩連盟の審査員になっている。現在では、デザインやコンセプトをアシスタントやパタンナーに伝えるのにデザイン画を用いないデザイナーは山ほどいると思うし、そもそもデザイン画が描けないデザイナーも少なくないが、1960年代、1970年代にはデザイン画が上手くなければデザイナーとは言えない時代だった。今から見ても花井幸子のファッションイラストは惚れ惚れするようなもので、多分ファッションの世界でなくても、ひとかどの存在になっていたのではないだろうか。

会場内に飾られたイラスト 会場内に飾られたイラスト 会場内に飾られたイラスト

私は、1980年代前半に一度だけインタビューしたことがあるが、「あたしって、コシノヒロコさんに似てる?よく間違われるのよ」と笑わせてくれたのを覚えている。コシノヒロコよりは、料理愛好家の平野レミの方が感じは似ていると思うが(笑)。とにかく口八丁手八丁の人だった。なんでも器用にこなしてしまう。日本舞踊も名取りだったし、カメラの腕もかなりのものだったようだ。ライセンス商品や製服デザインが多かったことは、彼女のそうした器用さゆえだろう。

東京コレクション(東京ファッションウィーク)のデザイナー組織であるCFD(東京ファッションデザイナー協議会。1985年設立)の前身であるTD6(東京のデザイナー6人。1974年設立)の1人であったことはよく知られているが、いわゆる「エレガンス系」のデザイナーであった。こうしたデザインに対する需要は世の中のライフスタイルのカジュアル化の中で、年々少なくなっているのは事実だが、なくなるものではない。会場で、花井幸子の素晴らしいファッションイラストを見ていると、こういうブランドが末長く生き残って欲しいものだと願わずにはいられなかった。合掌。

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